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第2回 なぜ、香港安全法を立法するのか 加茂具樹

第2回 なぜ、香港安全法を立法するのか 加茂具樹

第2回 なぜ、香港安全法を立法するのか

5月28日に閉幕した全国人民代表大会は、「全国人民代表大会の香港特別行政区における国家安全を維持するための立法と法執行メカニズムを整えることに関する決定」(以下、「決定」)を採択した (1)。いわゆる「香港国家安全法」を立法するという決定である。

中国政治の文脈を踏まえれば、香港における国家安全を維持するために必要な法律は、早晩、立法されるだろうと理解されてきた。論じるべきことは、なぜ習近平指導部が「いま」を選んだのかである。

Ⅰ.国際社会の批判と総体国家安全観

国際社会は、すぐに「決定」への懸念を表明した (2)。5月28日にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアが共同声明を発表し、この「決定」が「香港の自治と繁栄を支えてきた制度を脅かす」可能性があると批判した (3)。

通商摩擦を契機に悪化していた中米関係は、感染症の世界的な流行が米国にも波及するとともに急速に悪化していた。もちろん、米中対立の行方は「決定」だけでは決まらない。しかし、この時期に「決定」を下したことは、習近平指導部の国際情勢を理解するための重要な手掛かりとなるだろう。この「決定」によって、香港は米中対立の最前線に立たされる構図となった。指導部は、それでも「決定」したのである。

公式の理由は、王晨全人代常務委秘書長が全国人民代表大会に対しておこなった、「決定」草案を提出した理由説明の報告が明らかにしている (4)。王によれば、「決定」は、香港の「一国二制度」をめぐって発生した「新たな事態」に対処するためであった。「新しい事態」についての説明は、2つに整理されていた。一つは、香港における国家安全を維持するために必要な立法がないことために、「中国に反対し、香港を攪乱ようとする勢力が『香港の独立』や『自決』、『住民投票』などを公然に鼓吹し、国家の統一の破壊と国家分裂の活動をすすめていること」への対処である。そして、いま一つは、「近年、海外の勢力が、中国に反対し香港を攪乱しようとする勢力の活動を支援して、香港政治に干渉しはじめていること」への対処である。そして、ここでいう「新しい事態」が、香港で2019年に発生した「逃亡犯条例」に反対する大規模な政府抗議活動であった。

王晨の説明にあるとおり、指導部にとっての対香港政策の要点は、一貫して、国家安全の維持という文脈にあった。2014年4月に指導部が提起した「総体国家安全観」という概念は、国家安全にかかわる領域を政治、国土、軍事、経済、文化、社会、科学技術、情報、生態系、資源、核の11項目に整理した(5)。その後に海外権益が加わり(6)、さらに新型コロナウイルスの感染拡大後には生物安全が加わって、総体的国家安全は13の項目によってかたちづくられている (7)。

「決定」との関係において重要なことは、主権や領土の安全を意味する国土安全や軍事安全保障を意味する軍事安全よりも、共産党の安全を意味する政治安全が重要だ、と総体国家安全観が定義していることである。中央弁公庁主任(当時)の栗戦書が主任を務め、中央国家安全委員会副主任(当時)の蔡奇が副主任を務めていた「総体国家安全観幹部読本」編集委員会が2016年に編纂した『総体国家安全観幹部読本』は、香港を経由した反政府勢力の浸透を警戒し、香港における国家安全を政治安全の重要事項の一つとして位置付けていた (8)。

香港が中国に返還された1997年7月以来、歴代の共産党指導部は、香港での分離独立や反政府活動、外国勢力の浸透活動などを取り締まるなど、国家安全を維持するために必要な立法を香港に要求してきた。すなわち、香港特別行政区基本法の第23条に書き込まれている、国家安全を維持するための立法に取り組むという規定である。しかし、同法の立法は香港社会の反対によって実現してこなかった。つまり「決定」とは、香港が着手しないのであれば中央が直々に立法する、という指導部の強い意思表明であった。

Ⅱ.「決定」の意義は選挙対策だけではない

「決定」の主要な目的は、9月に実施される立法会委員選挙の対策にある、といわれる。「決定」には、立候補予定者に対して政治的立ち位置を旗幟鮮明にする圧力を一層に強くあたえる、という効果がある。しかし、こうした選挙対策を目的としているのであれば、新たな立法に取り組む必要はないかもしれない。すでに香港で実施されてきた立法会選挙、同補欠選挙、区議会選挙では、候補者や当選者に政治的立ち位置の表明が求められてきた。そして、その結果として立候補の取り消しや当選の取り消しがなされてきた。したがって、「決定」の目的を、立法会選挙対策だけと考えるべきではない。なぜなら習近平指導部は、「決定」のまえに、複数の重要な政策決定を一つ一つ積み上げてきているからである。

2019年10月に開催された共産党第19期中央委員会第4回全体会議の公報は、指導部が憲法と基本法に厳格に従って香港と澳門に対する管理と統治をおこない、長期的な繁栄と安定を維持するために、国家安全を維持するために必要な立法と法執行メカニズムを確立し、整える必要があると確認していた(9)。この時点で指導部は、香港における国家安全を維持するために必要な立法措置を講じること、すなわち「香港国家安全法」の立法を決断していたといってよい。

その後に指導部は、まず対香港政策に関する指揮命令系統の整頓に着手した。2020年1月に、対外的には国務院の香港での出先機関である中央政府駐香港連絡弁公室(中連弁)、実態は共産党の意思の実施(政策実施)を担ってきた共産党中央香港工作委員会の人事異動をおこなった (10)。

そして翌2月には、共産党の対香港と澳門政策に関する政策形成と政策実施を担う共産党中央港澳工作領導小組の事務機構である同弁公室、対外的には国務院香港澳門事務弁公室(港澳弁)で人事異動をおこなった (11)。指導部は、この2つの人事を通じて、対香港政策をめぐる政策形成と政策実施にかかる指揮命令系統の整頓を図ったのである。

Ⅲ.港澳弁、中連弁の人事異動

北京の港澳弁と香港の中連弁は、対香港政策の政治過程において重要な役割を担ってきた。中央政治局および政治局常務委員会の領導の下で、香港と澳門に関する政策課題の設定に必要な情報の収集と政策の形成、政策実施を担う組織が共産党中央港澳工作協調(領導)小組である (12)。港澳弁主任と中連弁主任は、この小組の構成員といわれている。

「言われている」というのは、同協調小組の構成員の全貌は明らになってないからである。香港紙は、韓正国務院副総理が同組長、副組長に楊潔篪中央政治局委員、中央外事工作委員会弁公室主任、尤権中央書記処書記、中央統一戦線部部長、王毅国務委員、外交部部長、趙克志公安部部長、張暁明港澳弁主任が就いていたと報じている。中連弁主任も同小組の構成員であった (13)。

港澳弁は、2014年6月に発表された「香港特別行政区における『一国二制度』の実践」を起草したといわれるように、北京において対香港政策や対澳門政策の政策形成で重要な役割を発揮している (14)。そして共産党中央香港工作委員会でもある中連弁は、香港における中央の代表として、政策課題の設定に必要な情報の収集と政策実施という役割を担っている。例えば中連弁は、全人代代表や中国人民政治協商会議委員の選挙をはじめとする統一戦線工作の中枢を担っていた (15)。

おそらく、対香港政策をめぐる政治過程において、指導部にとっての課題は、港澳弁と中連弁の関係にあったのではないだろうか。いずれも政策形成と政策実施には関与する組織であるが、政策課題の設定に必要な情報を香港において収集する中連弁と、香港の中連弁よりも指導部に近い距離で政策形成に関与する北京の港澳弁と、指導部が選択した政策を香港で実施する役割を担う中連弁との間には、明確な指揮命令関係はなかったようである。政策課題の設定と政策形成と政策実施に大きな役割を担う、中連弁と港澳弁の曖昧な(分業)関係は、政治過程の混乱を生んでいたはずだ。

曖昧な関係とは、指揮命令関係が不明確であった、という意味である。港澳弁主任も、中連弁主任も、共産党中央港澳工作領導小組の構成員であった。港澳弁主任は同小組副主任であり、中連弁主任は同小組の一般の構成員であったことから、領導小組内の序列では、上下の関係があったものの、港澳弁と中連弁は組織的には独立していた。また、2017年9月から中連弁主任に就いていた王志民も、2017年9月から港澳弁主任に就いていた張暁明も、ともに同じ党内序列(共産党中央委員)、いずれも行政上の序列も部長級で同位であった。

おそらく、港澳弁と中連弁は、対香港政策をめぐる政治過程において競争関係にあったと思われる。競争関係は、政策決定に必要な情報の多様性をもたらす利点がある一方で、情報収集や政策形成、政策実施の混乱を生むという欠点もあったのだろう。

しかし2020年1月と2月の中連弁主任と港澳弁主任の人事異動によって、港澳弁が中連弁の上位に位置付けられ、両者の間には明確に指揮命令関係が生じた。現在、港澳弁主任は国家級(中国人民政治協商会議副委員長)が就き、中連弁主任は国家級よりも一つランクが下がる部長級の人物が就いている。そして中連弁主任は、港澳弁副主任に就いている。

習近平指導部が、「決定」と同時に対香港政策をめぐる指揮命令系統を整頓したことは、「決定」は、単なる選挙対策だけではない、より大きな文脈でとらえる必要があることを示唆していよう。

Ⅳ.「決定」と指導部の国際情勢認識

楊潔篪中央政治局委員、中央外事工作委員会弁公室主任は、共産党中央港澳工作領導小組の構成員である。こうした人事は、習近平指導部が対香港政策を外交政策の一環だと認識していることを示唆していよう。前述したように、指導部にとっての対香港政策の要点は、一貫して、国家安全の維持という文脈にあった。そして、指導部が唱える国家安全(総体的国家安全観)は、外交の重要な概念としていちづけられてきた。2014年に開催された中央外事工作会議において習近平は、国家安全を「当面と今後の一定期間」の中国外交が堅持しなければならない課題と確認していた (16)。「決定」には、指導部の対香港政策観、対外政策観とともに、それを支える国家安全や国際情勢認識の変化が織り込まれていると考えて良い。

指導部は、みずからの外交活動を「中国的特色をもつ大国外交」という概念で説明してきた。それは、2つの方針によってかたちづくられている。ひとつは協調外交である。習近平の言葉によれば、「中華民族の偉大な復興の実現」という「中国の夢」を実現するためには平和な国際環境が必要であり、そのために「平和的発展の道」を堅持する必要がある、という外交である。

いまひとつは強制外交である。同様に習近平の言葉を借りれば、中国は「平和的発展の道」を堅持するが、「決して我々の正当な権益を放棄してはらないし、また国の核心的利益を犠牲にしてはならない。いかなる国も、我々が自らの核心的利益を取引対象にしたり、わが国の主権と安全と発展上の利益を損なう苦い果実をのみ込んだりするだろうと期待すべきではない」という。

指導部の外交には「協調」と「強制」の2つの側面がある。そして「決定」は、指導部が「強制」という外交手段を選択した結果であるといえよう。そうだとすれば、指導部が、なぜ「強制」という外交手段を選択したのか。その理由について注視しておく必要がある。


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(1) 「全国人民代表大会関於建立健全香港特別行政区維護国家安全的法律制度和執行機制的決定」『人民日報』2020年5月29日。本報評論員「為“一国両制”築牢安全堤壩鼓」『人民日報』2020年5月29日。
(2)  “UK, US, Australia and Canada scold China over Hong Kong Law”, Reuters, May 28,2020, https://www.reuters.com/article/us-hongkong-protests-britain/uk-us-australia-and-canada-scold-china-over-hong-kong-law-idUSKBN23425F
(3)  “Press release China’s proposed new security law for Hong Kong: joint statement”, Gov.UK, 28 May 2020, https://www.gov.uk/government/news/joint-statement-from-the-uk-australia-canada-and-united-states-on-hong-kong
(4) 「関於≪全国人民代表大会関於建立健全香港特別行政区維護国家安全的法律制度和執行機制的決定(草案)≫的説明」『人民日報』2020年5月23日。
(5) 「堅持総体国家安全観 走中国特色国家安全道路」『人民日報』2014年4月16日。
(6) ≪総体国家安全観幹部読本≫編委会『総体国家安全観幹部読本』人民日報社、北京、2016年。189-199頁。
(7) 「完善重大疫情防控体制機制 健全国家公共衛生応急管理体系」『人民日報』2020年2月15日。
(8) 前掲≪総体国家安全観幹部読本≫編委会、84-87頁。
(9) 「中共十九届中央全会在京挙行」『人民日報』2019年11月1日。
(10) 「国務院任免国家工作人員」『人民日報』2020年1月5日。「王志民被免去中聯辦甓主任職務 有消息称正常調動有指属問責」『明報』2020年1月4日。
(11) 「国務院任免国家工作人員」『人民日報』2020年2月14日。「政協副主席兼掌 港澳辦甓昇格 張暁明調職副主任 泛民関注中央欲直接理港事」『明報』2020年2月14日。
(12) 従来は共産党中央港澳工作協調小組であったが、6月4日の中国の公式報道は領導小組という呼称で報じている。「中央港澳工作協調小組昇格領導小組 夏寶龍任常務副組長」『東網』2020年5月29日。https://hk.on.cc/hk/bkn/cnt/cnnews/20200529/bkn-20200529090136925-0529_00952_001.html「中央港澳工作領導小組亮相 韓正任組長 趙克志夏寶龍任副組長『香港01』2020年6月3日。https://www.hk01.com/即時中國/481532/中央港澳工作領導小組亮相-韓正任組長-趙克志夏寶龍任副組長「韓正聴取香港特別行政区行政長官林鄭月峨対応特区維護国家安全立法問題的意見」『人民日報』2020年6月4日。
(13) 「星島:公安部長趙克志出任港澳工作協調小組副組長 應対港乱局」『香港01』2019年9月13日。https://www.hk01.com/即時中國/374799/星島-公安部長趙克志出任港澳工作協調小組副組長-應對港亂局
(14) 「港澳弁談≪“一国両制”在香港特別行政区実践」白皮書」『国務院』2014年6月12日。http://www.gov.cn/xinwen/2014-06/12/content_2699184.htm
(15) 加茂具樹『現代中国政治と人民代表大会』慶應義塾大学出版会、2006年。
(16) 「更好統籌国内国際両個大局、奮実走和平発展道路的基礎」『習近平 談治国理政』外文出版社、2014年、247-267頁。「中国必須有自己特色的大国外交」『習近平 談治国理政 第二巻』外文出版社、2017年、441-444頁。「堅持以新時代中国特色社会主義外交思想為指導 努力開創中国特色大国外交新局面」『人民日報』2018年6月24日。

 

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