第19回 「東アジア」をめぐる言語矛盾 伊藤努

第19回 「東アジア」をめぐる言語矛盾
少し前のこのコラムで「アジアの西端」の話を取り上げたが、アジアの東側地域、すなわち東アジアという言葉の概念も一筋縄ではいかない。タイやインドネシアなど東南アジアという地理的概念に対置するものとして東アジア、漢字で表記すれば「東亜」という用語がある。この場合の東アジアの地域としては、日本をはじめ、南北朝鮮、中国、台湾などが含まれており、東南アジアという概念とも矛盾することなく使われてきた。読者の皆さんの理解もほぼ同じではないかと推察する。
しかし、21世紀初頭から本格的議論が始まった「東アジア共同体構想」のメンバーには、インドやオーストラリア、ニュージーランドも名前を連ねており、東アジアの定義は根本から修正を迫られた。地理的概念の観点からも、インドは名実ともに「南アジアの盟主」と評される。オセアニア(大洋州)の有力国である豪州、ニュージーランドは、正確にはアジアの国ではない。それがなぜ「東アジア」と一括りにされるようになったのか、筆者には釈然としないものがある。形容矛盾ではないか、というわけだ。
ご存知のように、東アジア共同体構想は、人口2億のインドネシアを除けば中小国の寄り合い所帯である東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国の3者の政治的思惑・利害の産物として具体化した。欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)など世界の主要地域のブロック化の動きに対するアジア側の対抗軸として浮上した。1990年代後半までは、米国抜きのこのようなグループ化は事実上不可能と思われてきた。
それが一転して日の目を見たのは、米国による構想容認という姿勢の変化に加え、経済発展の潜在力を秘めるASEANが自らの求心力維持と、ASEAN加盟国に比べれば大国である日中両国との経済的関係を引き続き強めていくための舞台装置として提案し、両国の賛同を得たからだ。しかし、日中双方の思惑は同床異夢と言え、ともに東アジア共同体構想での主導権確保を狙っている。インドや豪州など東アジアの「域外国」と思われる国を誘い入れたのは日本政府の深謀遠慮で、中国の影響力を減殺しようという試みだ。
日中両国の主導権争いを横目に、ASEANは「東アジア共同体を率いる車の運転台に座るのはわれわれだ」と公言する。もっとも、数年前にはあった東アジア共同体構想に対する関係国の熱気は急速に冷めつつあり、「共同体」と呼べるような地域のまとまりがいつできるかは不透明だ。ASEANの枠組みとしては、関係が深い日中韓を含めた「ASEANプラス3」もあり、東アジア共同体が具体化するには、既存の枠組みとの違いを際立たせる必要があろう。3回目となる東アジアサミットは最近のタイの政治的混乱のあおりを受け、流会となったが、それも大きなニュースにならなかった。