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第497回 重慶の風土が生んだ激辛料理「火鍋」 伊藤努

第497回 重慶の風土が生んだ激辛料理「火鍋」 伊藤努

第497回 重慶の風土が生んだ激辛料理「火鍋」

最近、中国内陸部にある大都市・重慶を訪れる機会があった。重慶は先の日中戦争中に当時の首都・南京を攻略された蔣介石の国民党政府が臨時首都を置き、旧日本軍が数年にわたり爆撃したため、無辜の地元住民に多数の犠牲者が出たことで知られているほか、近年では中国の大河・長江(揚子江)を堰き止めて造った巨大な三峡ダムの上流部に位置するため、ダム上流部に点在する絶景あり、奇観ありの三峡を船下りしながら観光する三峡下りの拠点となる都市として日本で紹介されることも多い。

重慶は今から20年余り前の1997年、それまで属していた中国西南部の有力な省である四川省(省都・成都)とは分離する形で、中国では4番目の「省と同格の直轄市」となった。他の三つの先輩格の直轄市が現在の首都・北京、最大の商都・上海、歴史と伝統のある天津と聞けば、中国にあまたある市の中では別格の存在だ。加えて、重慶は市でありながら、面積は8万2000平方キロと北海道とほぼ同じ広さで、人口は3300万人超と、われわれ日本人が抱く市という感覚をはるかに超える巨大な地方都市であることがこれらの数字からもお分かりいただけよう。

中国の地図で見ると、奥深い内陸部に位置する重慶だが、市内を貫通する長江の便利な水利・水運と日中戦争以前からの伝統的な製造業の発達と相まって、鉄鋼や建設・工作機械などの大工場が多く立地する工業地帯として発展してきた。中国の最高指導者だった鄧小平氏の「改革・開放」の呼び掛けからそれほどたっていない1980年代には、地元の有力機械工場2社が日本企業との技術提携を進め、「嘉陵ホンダ」「重慶ヤマハ」のブランドでオートバイの生産を開始。折からの中国のオートバイ・ブームに乗って、両社は業績を急速に伸ばし、ホンダは後に、小型車メーカーのスズキとともに乗用車の現地生産にも乗り出した。重慶市内を走り回る乗用車の中でホンダ、スズキの日本車が圧倒的に多いのはそのためだそうだ。

オートバイの話が出て思いついたわけではないが、初めて訪れた重慶の街路をマイクロバスで走っていると、中国でおなじみの自転車をほとんど見掛けない。それもそのはずで、重慶の中心街は坂が多く、それも急坂が大半とあれば、自転車は敬遠される。生活がやや豊かになった地元市民がオートバイに飛びついたのも無理はない。現在は乗用車だ。

重慶の中心部は長江と嘉陵江(多数ある長江支流の中で最大の川)の二つの大河に囲まれた小高い山状の地形で、切り立った崖に住宅用の高層ビルが林立している。重慶の別名は「山城」ともいわれ、三国志の英雄・劉備が拠点とした「蜀」の都だった時代から戦(いくさ)となれば、軍事の要衝としての役割を果たしたことは容易に想像される。

物の本によれば、重慶の名物は「霧」と「階段」と「トンネル」で、いずれもこうした地形に由来することが分かる。重慶中心部の東側で、長江と嘉陵江の二つの川は合流するが、そこから湧き出すのが川霧で、1年の3分の1が「霧の日」になると地元のガイド氏は説明していた。合流点近くにある船着き場の朝天門(ちょうてんもん)は遠く武漢や上海につながる長江水運の重要な港で、奇観で知られる三峡下りの観光船も朝天門埠頭から発着する。

最後に、重慶名物として必ず名前の挙がる地元料理「火鍋」を紹介しなければなるまい。お隣の四川料理の辛さは有名だが、さまざまな地元食材を「血の池地獄」とも呼ばれる火鍋のつけ汁と一緒に食べるときの辛さは異次元の辛さなのだ。汁の赤みはトウガラシの色で、そのほかに山椒(さんしょう)や八角(はっかく)の香辛料が溶け込んでおり、煮えたぎった火鍋にアヒルの腸といった臓物などの食材を放り込み、火を通した後にひと口食べると、口中に辛さが走り、やがて涙や鼻水、汗が流れてくるといった塩梅だった。

なぜ、このような激辛料理が生まれたのか。筆者らの視察旅行に同行してくれた中日友好協会のR氏によると、重慶は霧が多いという気候条件のため、辛い物を食べて新陳代謝によい発汗を促すほか、水運業や製造工場、農作業などで肉体労働を強いられた地元民が安価に食欲をつけ、体力を落とすことなく明日の労働に向かうことを可能にする「医食同源」の産物とのことだった。どの国のどこの地においてもそうだが、郷土料理はそれぞれの地方の風土や歴史と深く関わっていることを火鍋料理から改めて知った。



 

 

 

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