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第495回 陶磁器をめぐる豊かな「時空を超える旅」 伊藤努

第495回 陶磁器をめぐる豊かな「時空を超える旅」 伊藤努

第495回 陶磁器をめぐる豊かな「時空を超える旅」

現代社会は何事も効率優先で、日々の食事も外出先で買い求めた食材や外食でそそくさと済ませ、家族そろってゆったりと食卓を囲むといった風景は過去のものとなりつつある。たまに大切な来客があって自宅でのちょっとしたパーティーを開くといっても、飲み物や食材はともかくとして、お気に入りの食器でゲストをもてなすという伝統や慣習などは一部の地域を除いては廃れつつあるのではないか。

だが、ひと昔、ふた昔ほど前まではまだ、めでたい場など特別の行事の席では、その家に代々伝わる価値ある食器や調度品を持ち出して客人をもてなすといった慣習も普通のこととして行われていたように思われる。文化的な豊かさと呼ぶべき余裕のあった時代は遠くなりにけり――。そのようなことを考えさせてくれる陶磁器の歴史や絵付けの特徴などに詳しい専門家の講演を聞く機会があった。

講演の演題は、「『破壊』から『再生』へ―オーストリアのロースドルフ城の陶磁片から」というもので、学習院大学の荒川正明教授がたまたま実態調査と修復事業に関与することになったオーストリアの首都ウィーン郊外にある由緒ある小さな城で行っている「古伊万里磁器の再生プロジェクト」の紹介である。講演の内容は中国と日本の陶磁器の発展の歴史や、これらの東洋の陶磁器の素晴らしさや芸術性に感嘆した中世の欧州の王侯貴族や富裕階層が大航海時代の貿易取引の拡大に伴って競い合うように買い求めた結果、価値ある陶磁器が欧州を中心に大いにもてはやされたという東西文化交流を振り返る「時空を超える歴史の旅」の趣きがあった。

ちなみに、欧州では16世紀ごろまでは陶磁器を自前でつくる技術がなかったため、金や銀などの貴金属、宝石を加工した食器や装飾品が主流で、既に3世紀ごろには陶器を生産していた古代中国をはじめ、その後に製造技術が伝わった朝鮮や日本でも相次いで陶器、磁器の生産拠点(九州・肥前の有田や伊万里など)が生まれ、職人らの切磋琢磨もあって数々の名品が誕生していく。

門外漢にはあまりに専門的なので、詳しい内容の紹介は避けるが、講演の中心的なテーマは、ウィーン郊外にあるロースドルフ城にあった大半が日本産と中国産の貴重な陶磁器コレクションが第2次世界大戦の末期(1945年)にオーストリアに進駐し、分割占領した当時のソ連軍部隊によって発見された挙げ句に破壊された後、割れた陶片として残されていたため、陶磁器に詳しい荒川教授らの研究チームに実態調査と修復に関する依頼が舞い込んだプロジェクトの現状報告となった。

ロースドルフ城に深いゆかりがあるピアッティ家(祖先はドイツのザクセン選帝侯の重臣)の現当主の協力もあって、昨年から始まった同城に膨大な量の陶片として残されていた陶磁器コレクションの調査と修復の作業は順調に進み、陶磁器の種類(壺類や大皿などの器種)や製作年代、生産地がほぼ判明する一方、日本人の著名な修復師の手によって陶磁器を修復し、元の形に再現する計画も軌道に乗っている。

城に残されていた陶片の調査を通じて、17世紀後期から18世紀前期にかけての日本の肥前磁器は大量に見つかったものの、18世紀以降の作がほとんど確認されていないほか、19世紀後半の幕末から明治初期の作が散見されるなど、近代に入ってからの海外陶磁器市場の取引にはそれぞれの時代を映した影響があることも分かったという。

ある時期の日本を含む東洋の陶磁器がピアッティ家の陶磁器コレクションにないことの一因としては、オーストリアからも近いドイツ東部のマイセンをはじめとする欧州製の陶磁器づくりが各地で始まったことがある。当初は、東洋陶磁の模倣で始まった面が強いとはいえ、技術の向上に伴い、マイセン陶磁器などが欧州の王侯貴族の好みに合致していくのは時間の問題だったはずだ。

筆者は今から30年余り前の西ドイツ駐在時代、仕事の出張で当時の東ドイツのライプチヒを訪れ、その折に近くのマイセンまで足を延ばし、「交差する刀剣マーク」で有名なマイセンの陶磁器を買い求めたことがある。小さな置き物の皿だが、買ったときの鮮やかな輝きだけは今も変わらない。
 

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