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〔7〕1冊のガイドブックにまとまっていた台湾と香港 小牟田哲彦(作家)

〔7〕1冊のガイドブックにまとまっていた台湾と香港 小牟田哲彦(作家)

〔7〕1冊のガイドブックにまとまっていた台湾と香港

昭和39(1964)年に日本政府が国民の観光目的による海外渡航を認めたばかりの頃は、実際に一般市民が観光目的で行楽旅行へ出かけることができたアジアの地域は、事実上、台湾や香港に限られていた。日本周辺の東アジア諸国のうち、日本人観光客を受け入れる社会的な態勢が整っていたのは台湾(当時は日本と国交があった)と香港(当時はイギリス領)・マカオ(当時はポルトガル領)くらいで、中華人民共和国とは国交がなかったし、東南アジア諸国の多くは、外国人観光客が安全に国内を旅行するための環境がまだ整っていなかった。しかも東西冷戦の真っ最中で、中国大陸はもとより、東側と呼ばれた共産主義陣営に属する国々へは、日本を含む西側諸国の旅行者は自由に訪れることができなかった。

そんな状況を象徴するのが、画像で示した昭和41(1966)年に発行された海外旅行ガイドブック「ブルーガイド海外版」シリーズの『香港・マカオ・台湾』版だ。半世紀以上を経た現在、香港とマカオを同一冊子内で扱う海外旅行ガイドブックは珍しくないが、香港と台湾を1冊にまとめているパターンはほとんど類例がない。

日本航空が編集しているだけあって、モデルコースの紹介では同社推奨の団体旅行パック商品であるジャルパックを名指しで挙げている。そのうえで、旅行日程が1週間の場合は香港2泊、マカオ1泊、台湾3泊となっている。10日間ツアーの場合はマカオ1泊はそのままで、香港と台湾が各4泊となる。いずれにせよ、「香港とマカオだけ」「台湾だけ」という旅行は想定していない雰囲気が漂っている。

どうしてこのような「香港・台湾の一体化」がアジア観光の標準パターンとして成立していたのか、明確な理由は当時の旅行業者の意図を汲み取らない限り、正確な理解は難しい。ただ、海外旅行が自由化されたばかりの日本国民の多くは行先を問わず、海外旅行のチャンスはそうそう頻繁にあるわけではない、という共通認識を持っていた。そのため、近隣アジア諸国で団体パック旅行の対象地域となり得た貴重な2地域(香港と台湾)は、できる限り同一の旅行で両方とも訪れるようにスケジュールを組むパックツアーが好まれた、ということではないだろうか。

限られた日程の中でなるべく見どころをたくさん回ろうとすると、香港に比べて範囲が広い台湾での目的地をどこにするか、が悩みどころとなる。半世紀前の本書は1週間ツアーのうち3泊を台湾に充てるモデルコースにおいて、「台湾は台中市(彰化・日月潭をふくむ)と花蓮市(太魯閣を含む)に行くスケジュールとする」と説明している。旅行費用が過大に膨らむことを避けるために訪問地を絞る方法も提案し、台中か花蓮のどちらかをやめるか、どちらも行かず台北とその近郊にとどまれば「経費は大巾に安くなる」としつつも、「時間の余裕のあるかぎり、少なくとも日月潭、太魯閣、アミ族部落の見物はぜひ推奨したい」ともアドバイスしている。

香港と台湾をまとめて紹介する海外旅行ガイドブックの傾向は、概ね、昭和40年代の10年近く続いた。その後、昭和50年代に入ると「ブルーガイド海外版」シリーズでも「香港・マカオの旅」と「台湾の旅」が分離し、そのまま現代に至っている。それは、香港と台湾を別の旅行先として認識する日本人旅行者が主流になってきたことの表れ、とも言えるだろう。

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