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第545回 鬼籍に入られた古巣職場の「三羽がらす」 伊藤努

第545回 鬼籍に入られた古巣職場の「三羽がらす」 伊藤努

第545回 鬼籍に入られた古巣職場の「三羽がらす」

今から40年以上も前の1970年代後半、筆者が大学を卒業して報道の道を歩むことになった会社の配属先の職場には、若手実力者のT部長の下、「外信(部)の三羽がらす」と呼ばれる3人の次長デスクがいた。職場のデスク席の後ろにある外国通信社のテレプリンターが次々と流す英語の外電記事などの翻訳のうまさにかけては右に出る者はいないといわれた「鬼の小松」、欧米拠点の駐在が長く英語のヒヤリングが抜群だった「佐藤あっちゃん」、そしてパリ特派員などを務め、新聞の社会面に載るような軟らか記事・話題物を書かせたらピカ一の「やまぴん」の3人の面々だ。筆者と入社年次が前後する職場の諸先輩・後輩たちも、皆がまだ駆け出しの記者だったこともあって、それぞれ個性あるこの3人のデスクにはいろいろとお世話になり、いまだに感謝の念が消えずにいる。このお三方はその後、入社年次に従って順繰りに外信部長を務めた。

しかし、旧年中のことになるが、最後までご健在だった佐藤元デスクが鬼籍に入られ、過去10年前後のうちに3人とも天国に旅立って行かれた。この3人とは若い時分にいろいろな思い出がある筆者には、一抹の寂しさとともに、往事茫茫という言葉が浮かぶ。

3人よりも入社年次が数年早かったため、先輩格のT元部長は80代後半の高齢ながら、今なお外交評論などで健筆を振るっておられ、お元気だが、かつて部下として全幅の信頼を寄せていた3人の仕事師がいずれも鬼籍に入られたことに肩を落とされているに違いない。

筆者も在外勤務を重ね、入社から年数がたつと、これらの諸先輩デスクと同じように、職場の後輩記者の翻訳や海外に駐在する特派員の原稿をチェックしたり、書き直しを命じたりするデスク稼業を長く務めたが、その際にしばしば脳裏を横切ったのは、自分の仕事ぶりが駆け出し時代に強い印象を受けた「外信三羽がらす」の先輩たちの域に達しているだろうかという自問だった。

もちろん、すでに記したように、三羽がらすのお三方はいずれも、記者やデスクとしてのタイプや性格、個性も違うため、それぞれの良いところを見習わせてもらい、それが筆者を含む当時の職場の若手記者の力量を上げることに役立ったのかもしれない。ここでは、外信三羽がらすのそれぞれについて特に印象に残っていることを書き記し、ささやかな追悼の文章としたい。

▽ある意味で合理主義者だったと思われる「鬼の小松」は、翻訳などが正確で記事をできるだけ早く契約先の報道機関に配信することを最優先に、翻訳を有能な若手記者に指示し、手がかかる翻訳や誤訳をするような記者に仕事を与えることは少なかった。翻訳の指示が回ってこない記者はそのことを自覚し、自らの翻訳の腕上げに「精進しろ!」ということだったのだろう。いつも気難しい顔をして、好きな銘柄のハイライトをくゆらしながらの仕事ぶりから、「鬼の小松」の呼び名がいつしか付いたようだ。しかし、入社から間もない筆者には、年に一度か二度は翻訳を褒めてくれることがあり、それが励みともなった。後年、編集局の整理部長として、記事審査に目を光らせた。それにしても、文章や用語の使い方には厳しい人だった。

▽大学のボート部出身でゴルフもシングルの腕前の「佐藤あっちゃん」はパイプから手を放さないダンディズムの人で、普段の笑顔とは裏腹に、仕事では厳しかった。外信部が扱う国際ニュースの主流は、外国の政治・社会情勢や戦争・紛争に関する硬派の記事だが、佐藤デスクは無数の外電記事から海外こぼれ話のような話題物を探し出しては配信するのがお好きで、若手記者にこうした外電記事の翻訳をよくさせた。その際に重要だったのは、短い記事にひねりを利かせ、落語の「オチ」のようなひと工夫を加えることで、ユーモアのセンスがいつも試されたものだ。1969年7月のアポロ11号による人類初の月面着陸の瞬間をプレスセンターのあった米国のケープカナベラルから間髪入れずに日本に速報したのは当時の佐藤ワシントン特派員である。

▽個人的な付き合いが最も多かった「やまぴん」のあだ名は本名の姓と名前が由来で、賭け事に滅法強かったこともその愛称に込められている。大学での専門は教養としてのフランス語だったこともあり、楽天的な性格の一方で、米国中心の世界観とは異なるフランスなど欧州流の文化・伝統に愛着を抱いていた。後年、欧州政治・外交の専門家として大学で教鞭を執ったが、その合間にも海外のカジノに出掛けてはギャンブラーの腕を磨いた。金稼ぎだけでなく、体験を基に本格的なカジノ本をものしている生粋のジャーナリストだった。学生時代に大病を患って休学したため、当時のT部長とはほぼ同年だったが、私学のW大学空手
部出身で親分肌の部長を心から尊敬し、その部下として働くことに生き甲斐を感じていた情の人でもあった。

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