第236回 冷や汗をかいたAPEC取材 直井謙二

第236回 冷や汗をかいたAPEC取材
経済成長が著しいアジアとの自由貿易が飛躍的に進んだ90年代はAPECが脚光を浴びた。インドネシア、フィリピン、マレーシアなどで取材したが、94年のインドネシアのボゴール宮殿で開かれたAPECは忘れることができない。
APECも当初は各国の思惑が交錯し、貿易や投資の自由化の精神を確認するだけで具体的な宣言は見送られた。経済専門誌や新聞などは事細かに分析した内容を掲載し伝える意味があるが、テレビ報道の場合はパンチのない報告になることも珍しくない。
インドネシアで開催されたAPECも会議場で延々と待たされたあげく具体性に欠けた記者会見が続き疲労していた。会議後、参加各国の首脳を前に主催国のスハルト大統領がAPEC宣言を読み上げる予定になっていた。時間は夕方4時から始まると発表された。日本とインドネシアの間には2時間の時差があり、日本時間は夕方6時からとなる。夕方のニュースでは当然トップの扱いになる。
伝送時間と編集時間を考えるとレポートの中に宣言の内容を入れるのは難しいし、会議の流れを見ると具体的な宣言は出る可能性も少ない。予め会議の雰囲気と今回も自由化を進める点では合意したものの具体的な合意はなかったとのレポートを衛星伝送した。あとはレポートの内容と宣言に大きな差がないことを確認するだけだ。

ところがアメリカのクリントン元大統領など各国の首脳は早めに席に着き、スハルト元大統領が予定時間より速く宣言を読み始めてしまった。宣言は「先進国は2010年までに途上国は2020年までに自由化を行う」という具体的なものだった。冷や汗が出る。放送時間開始までにはまだ15分ほどある。当時は携帯電話などなく予め送ったレポートをキャンセルして、生の電話で宣言内容を伝えなくてはならないため、電話がある取材ブースに向かった。走りたい衝動に駆られたが、走れば電話口で呼吸が苦しくなってきれいに話ができない危険がある。呼吸が乱れない程度の早足で電話にたどりつき、記者に配られたテレホンカード(写真)を差し込み東京に電話した。
「もう編集も済ませまもなく放送、心配ないよ」とデスクの落ち着いた声が聞こえる。「申し訳ない、そのレポートは使えない」というと今度は東京の混乱が電話を通しても伝わってくる。「どうする?」というデスクに「骨子だけを1分話す」と伝え、冒頭で聴いた先進国と途上国の自由化の期限だけを繰り返し伝えた。生本番の1分間は長く感じられ、終わりのない時間のように思えた。予断と油断は禁物と肝に銘じた取材だった。
写真1:記者に配られたAPECテレホンカード
《アジアの今昔・未来 直井謙二》前回
《アジアの今昔・未来 直井謙二》次回
《アジアの今昔・未来 直井謙二》の記事一覧