第138回 中国の古代ダム都江堰 直井謙二

第138回 中国の古代ダム都江堰
7月初旬、中日友好協会の招いた日本のジャーナリスト訪中団に筆者も参加の機会を得た。3年過ぎた四川大地震の現場を視察した後、古代の秦の時代に築かれた灌県の都江堰(とこうえん)に案内された。
四川大地震では地震の後、大雨が降り、土石流で被害が拡大した。今年も7月に大雨が降り、道路が寸断される被害が出た。切り立った山が多く、雨が多い四川省は古代から洪水や土石流で悩まされていた。
灌県に流れる岷江は山から駆け降りてくる急流で、ひとたび大雨が降れば氾濫し、大きな被害を及ぼすことは容易に想像がつく。もともとこの付近にはチャン族が住み着いていた。
チャン族は「羌族」と書く。司馬遼太郎の街道を行くの「中国・蜀と雲南のみち」によれば、羌は上から羊と人に分けられると書かれているが、先住民族の遊牧民族チャン族の時代は川が少々氾濫しても食料の確保には問題がなかったのかもしれない。
戦国時代に農耕民族の秦が紀元前300年ごろ蜀の地を征服し、暴れる岷江を治め、農業を発展させようと都江堰を造営したという。
都江堰はきれいに整備され、寺とゆかりの諸葛亮公明像が立ち並ぶ公園になっている。堰自体が巨大なため、遊覧して回る電気自動車も公園内を走っている。
7月初旬はすでに夏休みに入っていて、大勢の中国人観光客でにぎわっていた。観光案内には英語のほかに韓国語と日本語の表記がされていて、欧米人の姿は見掛けなかった。
都江堰は濁流となって下る岷江の真ん中に島を造り、流れを二つに分断して流水の力を弱め、灌漑しようというものだ。土木事業が発展していなかったことを考えると、途方もない工事だ。
堰を築くために竹で編んだ籠を造り、中に石を入れたものを積み上げたと言われ、公園内に見本が置かれていた。中州まで行くには細いつり橋を渡らなくてはならないが、激流を眼下に見るつり橋は左右に揺れる。
激しく揺れたので、渡り終わった時は船酔いのようにふらふらした。
2つの支流に分ける中州の先端は船の舳先(へさき)のようだ。(写真)

この灌漑で蜀の国は潤い、人口も増えて呉や魏と戦闘を繰り返した「三国志の時代」を戦い抜くことができた。
また、コメばかりでなく野菜が豊富に収穫され、四川料理を生んだのではないかと想像をしながら辛い料理を食べた。
工事が行われた紀元前160年ごろは、日本ではまだ弥生時代になったばかりで、国の体をなしておらず、中国文明の歴史の長さを改めて認識した。
写真1:都江堰
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